「原因において自由な行為」(actio libera in causa, a.l.i.c.)とは、犯罪そのものを行った時点では心神喪失や著しい酩酊などのために責任能力がない、あるいは著しく低下しているとしても、そうした状態に陥る原因を自分で作り出していた場合には、その先行行為の時点にさかのぼって責任を問いうるのではないか、という考え方です。典型例は、酒を飲んで責任能力を失ったうえで人を傷つけたり、酔って運転したりする場合です。行為時には責任能力がなくても、その状態を自ら招いた以上、完全に免責するのは不当ではないか、という直感がこの理論の背景にあります。
もっとも、この理論は、刑法の基本原則と強く緊張します。通常、刑法では、実行行為・故意や過失・責任能力が同時に存在していなければなりません。これがいわゆる同時存在原則です。ところがa.l.i.c.は、後の犯罪時点で欠けている責任能力や主観的要素を、前の時点にさかのぼって補おうとするため、この原則を例外的に修正するものではないかという批判を受けます。また、罪刑法定主義との関係でも、条文に明記されていない処罰拡張を認める危険があるため、各国で扱いが大きく分かれています。
ドイツでは、a.l.i.c.は古くから理論的に発達してきましたが、その正当化方法には大きく二つの考え方があります。一つは、同時存在原則の例外として処理する立場です。もう一つは、先行行為を含めて構成要件上の「行為」を広く捉えることにより、例外ではなく構成要件論の中で説明しようとする立場です。しかし、いずれも簡単ではありません。とくに連邦通常裁判所の1996年判決は、酒酔い運転などの交通犯罪について、「運転する」という構成要件文言を飲酒時点にまで前倒しして解することはできないとして、a.l.i.c.の適用を否定しました。これは、罪刑法定主義の観点から、文言の限界を超える解釈を許さないという姿勢を明確に示したものです。
ただし、ドイツ判例はa.l.i.c.全体を否定したわけではありません。2000年判決では、交通犯罪のような特殊な領域を除けば、a.l.i.c.の一般的意義はなお維持されるとされました。つまり、ドイツでは、暴力犯罪や計画的犯行のように、責任能力のある段階で犯意や計画が具体化している場合にはa.l.i.c.を限定的に認めつつ、文言が厳格に問題となる犯罪類型では適用を絞るという調整が行われています。また、自己誘発的酩酊により本罪で処罰できない場合の「穴埋め」として、刑法323a条の完全酩酊罪(Vollrausch)も置かれています。したがってドイツでは、本罪への帰責と、自己誘発状態そのものを処罰する補充罪とが併存しているのが特徴です。
フランスでは、精神障害による責任能力の否定を刑法122条の1が定めています。ここで大きな転機となったのが、2021年の破毀院判決です。この判決は、精神障害の原因が自発的な薬物摂取であったとしても、条文はその原因によって区別していない以上、裁判所が勝手に責任否定を排除することはできないとしました。つまり、司法の解釈によってa.l.i.c.的な処理を持ち込むことを拒否したのです。これは合法性原則を強く貫いた判断といえます。
しかし、この判決は大きな社会的反響を呼び、フランスではその翌年に立法による対応がなされました。2022年法によって、一定の場合には精神障害による責任否定や減軽を排除する規定が新設され、さらに、自己誘発的に向精神性物質を摂取し、その結果として一時的精神障害のもとで重大犯罪に及んだ場合を独立に処罰する特別罪も設けられました。つまりフランスは、司法が解釈で補うのではなく、立法によって限定的にa.l.i.c.的発想を導入したのです。この点で、フランスは「司法による補正を拒み、立法で穴埋めをする法域」と整理できます。
イギリスでは、a.l.i.c.という名称そのものよりも、自己誘発的酩酊をmens rea(犯意)の欠如の抗弁としてどこまで認めるかという形で問題が処理されてきました。中心となるのは、Majewski判決に代表される「特段の意図を必要としない(basic intent)犯罪類型では、自己誘発的酩酊を理由に責任を免れない」という判例法理です。ここでは、酩酊そのものを危険な状態の自己招来とみて、その無謀さをもって責任の基礎とする考え方が採られています。これはしばしば「道徳的同等性」と呼ばれます。つまり、酔って危険な状態に自ら入った者は、平静時に無謀に行為した者と道徳的には同程度に非難される、という発想です。イギリスでは、ドイツのように責任を明示的に前倒しするというより、酩酊を理由にmens reaの否定を許しすぎないことによって実質的に同じ問題を処理しているわけです。
米国でも、a.l.i.c.というラテン語概念自体は前面に出ませんが、機能的にはよく似た問題が扱われています。とくにモデル刑法典2・08は重要で、酩酊は原則として犯罪要素を否定する限りで抗弁になりうるとしつつも、recklessness(無謀さ)が問題となる場合には、自己誘発的酩酊により危険に気づかなかったことは無関係としています。つまり、「酔っていたので危険に気づかなかった」は言い訳にならないということです。これはイギリス法の発想をより明文化したものといえます。また、モンタナ対エーゲルホフ事件では、酩酊に関する証拠をmens rea否定に使わせない州法が適正手続に反するかが争われ、米国ではこうしたルールが憲法上どこまで許されるかが問題化しています。したがって米国では、a.l.i.c.は「証拠制限」「要件調整」「憲法審査」という形で現れています。
日本では、刑法39条が心神喪失を無責任、心神耗弱を必要的減軽としています。そのため、自己誘発的酩酊で心神耗弱に達した場合にも、条文どおりなら減軽しなければならないのかが問題になります。ここで重要なのが、昭和43年2月27日の最高裁決定です。これは、飲酒時に後で再び運転することを認識していた事案につき、酒酔い運転時に心神耗弱に当たるとしても39条2項の適用を否定したものと理解されています。つまり、飲酒という先行行為の段階で危険行為への認識があった以上、後の責任能力低下を理由に減軽はしない、という方向です。
もっとも、日本ではこの理論の説明の仕方に学説上の対立が残っています。故意を先行時点に前倒しするのか、過失犯として構成するのか、不作為犯的に把握するのかなど、統一的理解はなお難しい状況です。とくに39条2項が必要的減軽を定めている以上、それを解釈でどこまで制限できるのかという問題は重いものがあります。日本法はドイツ法の影響を強く受けつつも、条文構造との調和という独自の課題を抱えているといえます。
法哲学的に見ると、a.l.i.c.は責任主義を守るための理論であると同時に、責任主義を掘り崩す危険も持っています。確かに、自ら酔って危険な状態を招いた者を免責するのは不当だという感覚は強いです。しかし、だからといって、犯罪時点に存在しない故意や責任能力を無制限に先行時点へ読み替えるなら、結局は無過失責任に近づいてしまいます。そこで重要になるのは、第一に、先行行為が本当に自由な選択だったのか、第二に、後の犯罪がどの程度具体的に予見されていたのか、第三に、条文の文言や罪刑法定主義の限界を超えていないか、第四に、結果が偶然に左右される「道徳的偶然」に依存しすぎていないか、という点です。
結局のところ、各国の違いは、責任の空白をどう埋めるかという同じ問題に対し、どこで法的に線を引くかの違いだといえます。ドイツは判例法理を認めつつ憲法原則で強く制限し、フランスは司法の補正を拒んだうえで立法で対応し、イギリスと米国は酩酊による犯意(mens rea)否定を制限する方向で処理し、日本は刑法39条との整合を図りながら判例・学説で対応してきました。a.l.i.c.は、責任主義・罪刑法定主義・社会防衛の要請が正面から交錯する、比較法上きわめて示唆的な論点だといえます。

